かたくるしい にっきを かいてみたよ!

 ●「Basses」を更新。最近アンプ関係の装備が大きく変わりました。

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 尊敬する先輩ミュージシャンA氏はweb上の某所に舌鋒鋭い日記を書いておられる。例えば政治や宗教の話題なんかは誰が傷ついたり怒ったりするか判らないので,ミュージシャンは普通ライブのMCやweb日記などでそういう所にあまり深く踏み込んだりはしないものだけれど,A氏はその手の話題にも容赦なく切り込むし,あまつさえ同業者の音楽やお金を払ってライブを見に来る客の態度に就いてすらも自らが非と断じたものに関しては厳しい言葉でそれを批判する。そしてそれらはweb上に蔓延する,言葉ばかりが過激で内容は幼稚でしかも自分の素性は晒さないという凡百の素人批評とは違い,確固たる信念と鋭い観察眼にもとづいた強い説得力を持つ文章なのだ。殊に社会問題に対する氏の論調は往々にして過激なので異論を唱える者が居てもおかしくはないし私も「いつなんどきも氏に同調する」という立場ではないものの,決して穏やかとは言えないかもしれない自分の主張を,実名を晒した上で覚悟と責任を持って世に問う事ができるというのは凄い事だとその日記を見るたびに思う。そして当然,それが自分の専門分野(私らの場合は音楽)についての言及であれば負うべき責任はより大きく,重い。

 一方,友人のミュージシャンでやはりウェブサイト&日記を持っている人がいるのだが,この友人は別の友人に「ミュージシャンは,音楽以外の事で自己表現するべきではない」と言われた事があるのだそうだ。何もそこまで決めつけなくても…という気もしないでもないもののこれにも確かに一理あるのであり,作曲や演奏の能力と文章に依る表現力の乖離が甚だしければ,せっかく自分の音楽によって感銘を受けてくれた人々が後々自分の言葉によって幻滅を覚える結果にも繋がりかねない。両方の力が拮抗しているのならまだしも,足りない文章力を磨こうと努力するくらいなら音楽屋は音楽だけ一生懸命やっとけ,という意味ならその「友人の友人」の意見も一応は理解できる。

 私がこの場所で滅多に音楽の話を採り上げないのは自分の中にA氏のような覚悟や度胸が1mmも生まれて来ないせいもあるが(笑),「音楽なんて言葉で語ってもつまんない」と半ば本気で考えている事が一番大きな要因かもしれない。しかしそんな私でもたまには頭の中で音楽について言葉で思い悩むのであり,その内容も様々ながら例えば卑近な例だと「誰それのプレイは何処そこが凄い!」とか,「あんなプレイをするにはどんな練習をすればいいだろう」とか,はたまたネガティブな「あの人のあのプレイは良くないと思う」とか。でもそういった紆余曲折は最終的に自分自身の演奏の向上や音楽観の醸成に繋がればそれで満足なのであり,思考の過程や結論を(固有名詞を出す出さないは別にして)事細かに日記に記そうなんていう気にはA氏のような力量を持たない私には今のところなれない。

 …が,一つだけ最近強く感じた事で言葉に表せるものがあるとするならば,「演奏者たるもの感受性のみで満足するべからず」という事だろうか。音楽をやる人間にとって感受性が研ぎすまされている事は非常に重要な要件だけれど,A氏を人間として尊敬できるのは当然ながら氏の演奏が素晴らしいからであって,どれだけ言葉で美辞麗句を並べられたり見聞きした音楽の良さが感覚的/理論的に理解できたとしても,それを自分の演奏に昇華させられなければ批評家止まりなのであって演奏者としては何の意味もない。またもや例えが卑近になってしまうが仲間内の話題やブログなどで「誰それの演奏は何処そこが素晴らしい」と褒めちぎっているミュージシャン自身の演奏にその「素晴らしい」要素が全く見られない時の虚しさ,あれこそが正にその一例と言えよう。

 …なーんちゃって。テヘ☆